世田谷区桜新町の桜神社の会館。ここを鈴木秀天先生(1935年生まれ)主宰「氣道真呼吸法」の稽古場としてお借りしている。ご紋はもちろん桜の花。桜の好きな私は、ここがとても気に入っている。稽古の前には必ず、ご神水で両手を清め、神前に拝礼してから、上がることにしている。桜神社の神前拝礼(神殿礼拝)は一般的な、「二礼二拍手一礼」と違って「二礼四拍手一礼」である。
桜新町の並木は八重桜。桜祭りも、もちろん催される。満開のときは花の重みで枝が垂れてとても美しい。駅をはさんで「サザエさん通り」がある。その先が「長谷川町子美術館」だ。
稽古の帰りにオーナーが魚屋出身の「かねこ」でボリュームたっぷり刺身定食(鈴木先生好物)や、てんぷら定食(皆好き)、とろろそば(井上ひとみさんお勧め)などをいただいて帰るのが楽しみでもある。集う人数が多いと、お座敷のある、うなぎの「川信(かわしん)」だ。
2005.5.14(土)道場の先輩國廣道彦氏(1932生まれ、元、駐中国大使など)から稽古の後で「面白い読み物がある、日本人と神社の関係についてよくわかるから、読んでみたら如何、読み出したら止められないよ」とご案内があった
私はこの道場には 愛甲次郎氏(元、駐クウエート大使など・「文語の苑」主宰、國語問題協議會でお目にかかる)の紹介で、2004年1月に入門した。まだ新人である。
月から土まで、朝、昼、夜と職場を転々としているパートタイムで、日々時間に追われている状態の私には、もし、読書の時間が取れなかったら、という思いがすぐ湧く。せっかく勧めてくださったのに、「読めません」では申し訳ないので、「すぐ読めてしまうものなのですか」と伺った。「すぐ読んだ」とおっしゃるので、早速、職場の購買部(1割引)に注文した。
そのような話題になったのは、先だって、桜神社の神主(40代半ば)から会館を利用している各団体の希望者に神社の由来の講義があったとき、会に出れば、普段は見ることのできない、山岡鉄舟の書も所蔵してある宝物室を見学できる、お酒も飲める(会費2000円)、ということにつられて出席し、そこで國廣氏とお隣の席になったのだ。
山岡鉄舟の書(半切三分の一大、絵入り万葉仮名)は頼まれるままに、書いたものと思われて期待はずれだった。それよりも大久保利通の威風堂々たる書(全紙屏風仕立て)が値打ちがあると鈴木先生はおっしゃっていた。私には神主の祖父の書も立派であったので印象深い。
そのおり、所蔵の書については、岡崎久彦氏(1930年生まれ、元、駐タイ大使など・岡崎研究所所長)の解説で十分に堪能することができた。
その講義の後で、國廣氏に「今日の話は、それを知ったからといって私にはどうでもいいことだったけれど、10パーセントは知っていた。面白かった。あなたは?」と聞かれたので、「90パーセントは知っていることでした」と正直にお答えした。國廣氏とはそれまであまり私語も交わしたことがなかったので、突然そのようなお返事をした私を、どのように思われただろうか。
私は幼いころから神仏に手を合わせる習慣のある家庭で育ち、武道の稽古を40年ほど続けている。武道の神様としての香取、鹿島の神々を始めとして、日本の八百万の神々に対する敬虔な気持を持ち続けている。
神社仏閣の前は素通りできない。それらに挨拶をすることは私の日常生活の中に組み込まれている。
7年前に小さな家を構えたが、一番の計画は神棚を作ることだった。今は願いが叶ってとても幸せな気分の日々である。神祭りはもちろん朝夕夫が祝詞を上げている。仏様に対しても同じ気持ちである。こちらにも、夫は般若心経を三唱している。
夫は食べ物を口にするとき必ず神仏に供え、「戴きます」をしてからにする。この6日でいっしょになって28年になるが、1日も変らない。
我が家は檀那寺があったり、特に何教に所属しているわけではないが、神や仏の存在を信じている。こう考えてくると、一神教でないことは確かだ。
それから、ある姿や光、とでも表現したらいいだろうか、私たち夫婦には時々見えるものがある。ありがたいと受け止めると同時に、これが私たちが共に生かされていることの実感である。
道場には、彼の同世代(1930年前後生まれ)の知識人や高級官僚経験者がたくさん通ってくる。
私と同日入門の豊永恵哉氏(1930年うまれ、通産省官僚の経験ばかりではなく松下幸之助氏に気に入られて松下の副社長までした)はフランス在住が長い。氏は天才的な感性の鋭さで私の遥か高方の氣を手に入れている。
負けず嫌いの私が本人に「どうしてそんなに進歩が早いのですか」と遠慮なくお尋ねしたら、「えっ、へっ、へっ、性格が素直だから」とお答えがあった。悔しい、けれど当たっている。
皆さん、何気ない会話にも英語は勿論フランス語もその他の言語も、自在に使いこなされていて、今日(こんにち)のニュースにも詳しい。豊永氏は今、世界中の新聞がとても面白くて毎日目が離せないそうな。
誰もが、一所懸命働いて、やっと自由な時間をたくさん手に入れたことを、楽しんでいる様子がよく伝わってくる。
國廣氏は、先日も2000字の原稿依頼に4000字書いたとおっしゃる。
岡崎氏は、世界中の情報を集める研究所のスタッフの報告を毎朝分析している。
そのような方たちの、上品で節度ある会話は耳に心地良い。が、私とは生きている世界がまったく違うのに、ほんの少しの時間であるとはいえ、ご一緒の空気を吸わせてもらっていても、いいものだろうか、邪魔になりはしないかと、気の小さい私は心配になるのである。
そんな中で、私は彼らに共通の「時代の空気」を感じている。それを代表するものは「郷愁」と「洋風」である。
まず、地球規模で縦横無尽、八面六臂の活躍をしてきた彼らの心の中には、いつも「郷愁」を抱いていることを強く感じる。
「郷愁」とは、日本という土地を限定するものではない。なぜなら、彼らには、第2、第3と数えることの出来る思い出の地が世界の各地に存在するからである。「ああ、あそこには14年おりました」などと軽くおっしゃるのだ。
彼らは間違いなく、地球の大きさを体感している。
私の感じた、彼らの「郷愁」とは彼らの「精神の拠りどころ」を求める気持ちであると見ている。
彼らには、世界を駆け巡って日本のために、尽くしてきたという自負がある。ここまで来るには、実際には、孤立無援の時もあったであろう。四面楚歌の状態も少なからず経験しているはずである。そうした中で生き残った人々なのだ。どんな場面に遭遇しても、生死を分かつ、勿論生き残るための「精神のありようを求めるこころ」を強く持って大切にしてきたからこそ生き延びることが可能だったのだろう。
だから、それについて誰かとわざわざ言葉を交わさないでも、彼らの存在そのものが、場の雰囲気をそれとなく醸しだしているのだ。
丁度、「氣」を求めている人々が、道場に集ったときに、氣の磁場が成立し、よい「氣」がさらに強くなるように、彼らの魂は常に増殖を続けているのが見て取れる。
だから、なんにもしていないに等しい私などが交じると、場違いも甚だしい。申し訳ない。それなのに、私は彼らから、計り知れないほどの恩恵を受けている。有難いことだし、光栄でもある。
これを、今の自分の肥やしとしないならば、とても彼らの善意に報いることはできないと自覚している。従って、入門以来、先輩である彼らをただただ見ること、武道でいえば「見取り稽古」をさせてもらっている。
もちろん、稽古のたびに手取り、足取り教わっているのはいうまでもないことである。
彼らはすでに、常人では得られない氣の世界をも体感している。なおかつ、現在では最高の氣道の実力者鈴木秀天先生を仰ぎ、集い、さらなる進化を遂げようとしている。
決して現状に満足し、埋没してしまわないのが、彼らの進化のコツでもある。「最後まで投げるな」と彼らは身をもって教えてくれているのだ。習わない手はない。
ここまできて、私は、あらためて、彼らの年代に思い至った。ちょうど1927年生まれの詩人で弁護士の中村稔が『私の昭和史』(2004.5.青土社刊)に描いたその世代である。
2005年現在、功成り名遂げた70代半ばの彼らの多くは、当時でも恵まれた家庭環境にいた人が多いことも知る。
例を挙げると、私の尊敬する、秋山駿先生(1930生まれ、文藝批評家)が2004年の年末から3月までの病気療養中の2005年1月のこと。「家庭では、和食ではなくパンを焼かせて、ステーキを食べていた」、と奥様(法子さん)に電話でお話を伺った。
以前に、大佛次郎(鞍馬天狗などの作品でベストセラー作家)の戦時中の食卓の豊かだったことはその記録を読んで知ってはいた。だからそのときは「国民の大多数が飢えていたと聞いているが、日本の中にもそんな環境にいた人がいるんだなあ」と何となく思った。
けれども、2005.5.21國語問題協議會で加藤淳平氏(元 駐ベルギー大使など)が、同時期に「家ではパンを食べていた」と発言され、そうだったのか、彼らは、そういう環境にいた人だったのか、とあらためて事実として受け止めることができた。
彼らは、そんな恵まれた中にあって、すくすくと育ち、なお努力家でもあり、当時の西洋文明の最先端をよく吸収して、世界に伍して出かけていった優秀な人々であることに気付かされた。
新時代を担う彼らの生活様式、思想のモデルは海外にあった。主に洋風の中の欧風だった。小、中学時代の文語、漢文の素養に加えて、生活面でも西洋式の教育を受けた。大学は独文、仏文を専攻するばかりではなく、留学組も多かった。明治以来の開国のリーダー達の知識を吸収する方向は、西洋を向いていたということだ。
敗戦国といっても、国と民は存在している。当時の日本には働き盛りの先輩の数が足りない。特に海外には多種の可能性があり、洋風教育の身についた子弟の活躍の場は十分に用意されていた。
戦後復興のために、日本のリーダーシップをすぐにでも執るにふさわしい人が望まれた。しかし、日本の文化伝統としての精神的拠りどころである、「大和魂(やまとだましい)」の後継者としての立場の人は、従軍してすでに世になかった。
生き残った先輩たちも、いまさら「武士道」と同じように、戦争の大儀に利用された「大和魂」を前面に押し出して、青少年の根本精神を育てようなど、唱えられる状況も勇気も持つことは出来なかったのではないか。
もし出来ていたならば、今日ここ日本に「大和魂」が生き残っているはずである。「武士道精神」も「大和魂」も正しくは伝わっていないと感じているのは私だけだろうか。
敗戦となった時点で、「大和魂」は「すべて軍国主義である、だから悪なのだ」、とひと括りにされて、アメリカ指導の日本の政治から完全に締め出されてしまった。このときこそが日本人の文化と伝統を引き継ぐ拠りどころとなる「大和魂」というキーワードの消滅の時であった。
民族が精神的な支柱を失えばどうなるか、昨今の日本の殺伐とした世相を見ればわかる。それは日本民族が戦後60年間、今も「迷える民」であることを証明している。
そればかりではない。60年経ったいまでも、次世代を担う人達に的確な教育が行われているのかというとそうではない。ほんの一例ではあるが現に、高校では自国の歴史を学習するのが必修科目ではなく、「世界史」が必修である。こんな国が世界広しといえど、どこの国にあるだろうか。
話を戻そう。
大人たちが、敗北感から自分に誇りを失って、民族の精神が沈黙するばかりの時代に、1930年前後生まれの彼らは罪悪感など抱く必要の無い、天晴れ、青少年であったのだ。だから彼らは何ら悪びれることなく、堂々と世界に出て行った。
そのどこまでいっても勤勉な、こころに疵を持たない、かつての青年たちは今、「外に向いていた、こころの回帰を求めて」呼吸法に、仏教に、神道に、現在の世界のニュースに興味津々である。病気やアクシデントを一度も経験していない人はいないが、今日は養生しながら、快適な日々を手にしている。
5月28(土)の稽古のあとで「かねこ」で食事をご一緒したとき、加藤氏が「國語問題協議會も歴史的仮名遣いや本漢字を推奨している古い会なので、安田さんは女性として発言のチャンスがないといっていたが」といいかけたら、國廣氏はずばり「(女性も何も関係無い)なにか仕事をしましたか」と一言。私はあわてる、あわてる。なにも仕事をしていないのが、バレバレで、すぐにもその場を逃げ出したかった。加藤先生、同情してくださってありがとうございます。すみませんでした。
後ほどお伺いしたら、國廣氏は病気療養のため、第一声帯を悪くされ、現在は第二声帯を使用されて声を出すため、普通の人なら、いつも叫んでいる状態でお話になっているそうだ。それにしても、いつも短い会話の中に、切れ味鋭く急所を突かれるので、尊敬してやまない存在だ。
本が届いたのが6月1日(水)である。
『青い空』海老沢泰久著2004.6.15文藝春秋 (『オール讀物』2002.6~2004.1)
本文700ページ。原稿用紙1700枚余の長編歴史小説。厚さ3.5センチ。重い。定価3000円。(5日読了。)
私は「すぐ読める」のだから、文庫本か何かだろうと、高を括っていたのだ。
1日の帰りに(武蔵野大学の)日文の研究室に寄って黒井千次先生(1932年生まれ・作家・日本文藝家協会理事長)と秋山駿先生に雑談のついでに「宿題ですので、今から読まなくちゃ」と『青い空』の実物をお見せしたら、「こりゃ(分量が)たいへんだ(読むのに時間がかかる)」とだけおっしゃった。この直木賞作家がどのような作品を書いて来たか、お二人は知っていらっしゃるのだろう。
本のオビには「歴史小説」とあった。みんなの前で、ページは開かれなかった。が、『オール讀物』の連載であったので、お二人はすでに目を通されているかもしれない。私は未読なので、内容についての話ははじまらなかった。
秋山先生は時代小説が大好きなのだ。『時代小説礼賛』の本も出されている。金庸(台湾の作家)『書剣恩仇録』全四巻。岡崎由美訳1996.12徳間書店刊を教えてくださったのも先生だ。池宮彰一郎『島津奔る』上・下2001.5新潮社刊も貸してくださったし、ほとんどの時代小説は読破していらっしゃる。しかも、先生の本の読み方は「1字、1句を舐めるように読む」のである。したがって、実際には一度も剣を持ったことがなくても、すでに先生の頭の中は免許皆伝である。間違いない。
が、先生がいくら本を薦めても、武道の修業方法について、私は1行も述べられないので、何も話すことが無い。
武道の奥義を述べた書物は案外たくさん残されている。全て正しいことをいっている。しかし、それに実践が伴わないとただの理屈でしかなくなる。哲学的な示唆も、普遍的な真理も述べられているのだけれども、それは、生きた人の肉体の発動によって、真実となる。
「細胞のひとつひとつを締めよ」「開け」というとき、それがどのような状態であるのか、私には表現の手段がない。この似て非なるものの溝は大きすぎる。
秋山先生とは、年末12.24先生の入院加療時以来、半年振りにお目にかかった。昼休みに先生の『批評の隙間』鳥影社刊にサインをしていただき、桜新町の道場の読書家の稲岡敬二氏(彼は秋山先生の代表的書評、藤沢周平「蝉しぐれ」の書評を教えてくれた)からも指摘された、この本の誤植多し、の話をした。「誤植どころじゃないよ。たくさんある。一度活字になったものをまとめたものなので、文字が変わっていることが、考えられない。担当者に聞いてみる」とおっしゃっていた。
先生は、つい先日、黒井先生が言われていたように、しゃんとして、お酒が抜けて、顔のむくみも取れ、却って、さっぱりしていらした。杖をお使いになられるようになった。以前より酔いやすくなったと、お話しされてもいた。「(研究室に置いていた)お酒はどうした」とつぶやかれたので、聞こえなかったふりをすると、「よくないねえ」である。部屋を移動するとき、洋酒を除いては、私の差し入れしか残っていなかった。お酒の行方は私が知っているのである。人に借りを作るのが死ぬほど嫌いな先生は、すでに私の一生分ほどご馳走してくださっている。差し入れなどたやすいものだ。
暫し沈黙。先生も説教するようなやっかいな私を呑みに誘うより、院生達を誘うだろうと勝手に考え、放課後は早々に黒井先生と研究室を失礼した。
帰りの三鷹行きスクールバスのなかで、黒井先生は、実は「今日は家内の手術1周年の日で、検査結果がわかるはず、」とおっしゃった。そういえば奥様は心臓の大手術をなさって、見事に復帰され、もう1年になったのだと、私も心が震えるほど嬉しかった。
黒井先生は、本人を取り巻く日常の出来事の中でごく自然体に年齢を重ねてきていらっしゃると感じる。すこぶる健康。抜群に頭がいい。教授たちの逃げそうな雑務も、鼻歌交じりにあっという間に片付けてしまう。どうりで超多忙の毎日でも大事な仕事を幾つもこなせているわけだ。
昨今の世情も作品も、青年を描いたものは多いが、少年を描いたものが少ない。勿論、冒険活劇や犯罪の世界で活躍する、特殊な立場の少年は描かれる。アニメの『エヴァンゲリオン』の主人公は14歳の少年。また「少年A」のように犯罪者としても話題になる。しかし、ごく、まっとうな成長過程にある少年の姿はなかなか描かれにくい。大多数の少年たちが、自分たちのモデルを求めているにもかかわらず、である。
先生の『春の道標』はその意味では希少価値のある作品だ。男子高校生の淡い恋心などを、日常の中に描き出した青春小説で、以前は担当する高校1年生の読書感想文の宿題によく出したが、絶版になってしまったのが残念だ。
一方、秋山先生ご夫妻は、両人ともいつまでも気持ちが若く、攻撃的性格はなかなか収まらない。ま、それも楽しんでいらっしゃることのひとつなのかな。
先生が健康上の理由として、新宿朝日カルチャーセンターの教室(同人誌『舗石』を出している)を佐藤洋二郎先生(作家、日大教授)にお願いしたり、あと1年で大学(武蔵野大学客員教授75歳定年)を退任すると、家では大変な時間が待っていることは、容易に想像できる。
先生の担当していた、カルチャー教室の生徒さんたちはくったくがない。自分が前に出るためなら、人を押しのけ、意地悪をするのは生き残りをかけた、当然の行為だと思っている。先日も「私と貴女だけしか知りえない内容を、貴女から聞いたと言ってた。貴女は信用できない」だと。これだ。
すでに新人賞を取っている人や、これから小説を書こうという人達のすることだ、一言自分の都合のいいことを、引っ張り出せば、あとはいくらでも内容を膨らませることなどたやすいこと。私はタジタジだったけれど、先生の個性には、ぴったりだ。「前にはいい人もいたでしょう。もうこの教室には性格の悪いあなた達しか残っていないんじゃないの」というと、口を揃えて「そうなんですぅ」と答えて笑っていた。憎めない。
生徒さんたちは元気があって、生きる力が強い人たちである。だから先生も元気になれる。先生より20年近く若い団塊世代の雰囲気をストレートに運んできてもくれる。孫のような子供たちの、「今」も知ることができる。
それに、失礼を顧みず言わせてもらうと、生徒さんたちの書く作品よりも、生徒さんたちの存在そのものの方が、生のドラマがあった。躍動があった。
担当をおりるなんて、あんなサロンは他にもうないな。惜しいことをしたと思う。
この9年、武蔵野での私設秘書を自認してきた私は、研究室の引越しや、新年度の引継ぎがうまくいってほっとしている。
いまのところは、先生が元気になられたようで、本当によかった。先生にはこれからも、「未熟児で生まれて不摂生でも長生き」という記録を更新して欲しい。徹夜、お酒、あれだけハチャメチャな生活を送ってきても、少々の怪我や病気をやり過ごして、ご夫婦とも70半ばの今もご健在というのはまさに、奇跡なのである。
お楽しみのひとつに、昨年は私の氣でお酒の味を変えて召し上がっていただいたことがある。今度は、スプーンの首を2周り曲げて見せてあげたい。
それより先生は「箸袋で箸を割る(切る)」ところを見たくて仕方が無い。今すぐだとすると、いつでも、どこでもできる岡崎久彦氏が目の前で見せてあげるしかないか。道場の合宿では、参加者のほとんどができるので、参加して戴くしかないか。などなど考えてみる。私は去年の夏の合宿では箸袋で箸を割ることが出来たのだけれども、先生の前ではなぜだか出来なくなるような気がしてやって見せていない。
鈴木先生は、そんな芸当を面白おかしく実演して楽しむのは初心者だ、とおっしゃる。(先生は人の髪の毛で箸を切る。)他の先生も、誰彼かまわず人前でスプーンなんか曲げるんじゃない、といわれる。けれど、このところの私のカバンにはなぜかスプーンが1,2本入っている。
今私は、曲げるのが嬉しくて仕方が無い時期なのだ。
さて、『青い空』のテーマである「日本はなぜ神のいない国になったのか」は維新前後に青年であった主人公の成長とともに、幕末の世相、廃仏毀釈、キリシタンの「類族」をよく調べてあった。資料に気合が入っていたというか、資料集といったほうがいいのだろうか。
すぐれた歴史小説は、司馬遼太郎にしても、よく調べた資料を活かして書いている。『菜の花の沖』にとりかかるとき、彼が神田の古本屋で「この棚の本、全部くれ」と言った話は大河内昭爾先生(1928年生まれ元武蔵野大学学長など・秋山駿先生を武蔵野に連れて来てくれた。)から伺ったことがある。
しかし、彼が、本屋を開(ひら)けるぐらいの資料に当たったとしても、作品の中にはその資料の煩雑さ、調べた苦労は出てこない。包み隠しているところが上手いのだ。だから読者は資料などよりも主人公の姿に目を奪われる。
すぐれた書き手は主人公を生き生きと映し出す。ページをめくる毎に登場人物が命を吹き返してくるのが読者には伝わってくる。そして、読者の興奮は読み終わるまで収まらない。
あんまり、「よく調べました」の部分が表に出てくる作品となると、読者としては、気楽に、主人公の世界にのめり込めない。これでもか、と、資料を並べられただけで、肩が凝る。もう続きを読みたくない。
書き方でいうと、実年齢を挙げて「主人公たちはみんな若かった」と書くより、「若さゆえ」の主人公の言葉や行動を示すことで、読者は主人公の若い年齢を容易に想像することができる。
また、読者が、次のページに期待するようならば、物語は面白いに決まっている。面白いから読むのだ。それしかない。
時代小説や歴史小説であるならば、戦いの場面があるだろう。主人公が死闘を潜り抜け、権謀術策を掻い潜り、縦横無尽に物語の中で活躍するとき、読者はその世界にどっぷり引き込まれて、手に汗にぎるのである。しかも読後感は、必ず爽やかでなくてはならない。
藤澤周平の作品があれほど読まれるのは、どの作品の主人公も、彼らが活躍する土地でさえ、いきいきと生きて読者の前にその姿を現すからである。 よく調べてあるなあ、などと読者に感じさせはしない。読者がページをめくる間ずっと、作品世界にしみじみ浸れる至福の時を、たっぷりと与えてくれるからである。ファンになれば、読後、主人公の名前を忘れたりはしない。
『青い空』は、読了に4日もかけてしまった。決して斜めに読み飛ばせるものではなく、資料をしっかり頭に入れていかなければ、もったいないぐらいのものであった。
私が、この小説で日本人の宗教観を紐解く、というよりも、考えさせられたのは「政治」についてであった。
この本の存在を教えてくれたのが、元大使という職業にあった人物、國廣氏であるからなのか。彼にとっては、ここに書かれている「政治」問題など基本の「き」であって珍しくもなんともないのであるかもしれないが、パートタイムの経験しかない私にとっては、題名の通り、曇った空に青空を見出したような気持ちになった。これは、勿論、作者の題名意図とは全く別の意味での「青空」なのである。それをわかっていてあえて「青空」と言いたい。
『青い空』は「神仏」について政治はどう取り扱ったかに1700枚のほとんどの紙数が割かれている小説であるので、学者、研究者が喜びそうな作品である。
「政治」にも無知なまま過ごしてきた私にとって、「政治」について考えるよい機会になった。しかし、わからないということが、わかっただけだ。
私たちは今、生きて活躍していて、今の時代の中に生かされている。尊敬する人々、気の合った人々、憧れの人々、愛する人々と同時代に生きる喜びは図り知れない。
こんなことでさえ、國廣氏を通して『青い空』を話題にしなければ、私は気づきもしなかっただろう。
いや、愛甲氏のご紹介により、なにより「氣道真呼吸法」の道場に出会えなかったら、自分の続けてきた、長年の武道の稽古も空回りに終わっていたことに思いが至ると冷や汗がでる。
私もこの25日で58歳だ。3年前に、働いて、働いて、気付いたときにはガンで亡くなった男友達(会社役員)と同じ歳になる。年齢を考えずにはいられない。この歳まで生き長らえて来たことに感謝しつつも、今まで、社会の組織にも組み込まれもせず、独立の気概もなく、まったく恥ずかしくもなく、のうのうと生を貪ってきたものだと、自分に呆れているのである。
こんなことをあえて言うなんて、居直っていないか?それとも更年期の鬱なのか知らん。
6日(月)、武蔵野大学の「日本の伝統文化を体験学習する」(前原祥子教授・家政学・作法に詳しい)という講座に去年に引き続き講師として招かれて剣道の実技指導を50人×2クラス持った。首尾は上々であったと自画自賛する。体験学習のコーナー
手当て(銀行振り込み)も戴いた上に、帰りに吉祥寺東急の上にある「梅の花」でお豆腐会席をおご馳走になった。予約をしておいてくださったのだ。琉球畳の美しい南国風和室は気持ちよかった。前原先生ありがとう。
私が先生に素直にお御馳走になるのは、いつも先生は身をもって交際の作法を教えてくださっていると了解しているからである。「こうしなさい」と言葉でいわれなくとも、お御馳走になった御礼はすぐにそのあとお伝えしておくべきだし、自分が嬉しかったことは、今度は自分の後輩にしてあげればよいということなどに気付かせてくださるのである。
先生の授業は日本人ばかりでなく、多くの留学生が受講している。現代人として育ってきた世代に、日本の伝統文化を体験学習させることこそが、現代人の教養の厚みを増すことになるのだ。文化に対する謙虚さも、理解もその中から新たに生まれ、育ってくる。
爽やかな汗を流したもの、手足にマメをこしらえたもの、みな、若さあふれる健康な遺伝子が目をさましたひとときであった。
このごろ晴れの日は下駄。足に心地よかった。
あんまりいい気持ちになって、バスで調布に出て、相模原線に乗り換え、京王稲田堤駅を降りるとき、汗でぐしゃぐしゃになったままの稽古着(30年間使用。白。特製。生地も手に入らない。もう作ってくれる人はおそらくいない。使用後すぐ洗って大事にしてきた。新品同様に見える)を入れたキャリーバッグを紛失してしまった。B5版の今年のスケジュール帳と書きかけの原稿の入ったフロッピイも。化粧ポーチも。いずれも他の人が使っても何の価値も無いものだけれども、当分私は身動きできない。
個人情報てんこもりの手帳の行方が気がかりだ。何とか出てきて欲しい。
それにしても、あんな大きいもの、どうやって忘れるのォ?倫子(了