赤いちゃんちゃんこ                      2007.8 安田 倫子

私は昭和22年生まれ。2007年6月に還暦を迎えたばかりの8月、故郷愛媛県今治市での小学校(15日46人出席)、中学校(16日79人出席)の同窓会に顔を出した。大井小学校には三年生の夏までしかいなかったのだが、50年ぶりだ。クラスも違えば元より知らない顔が多い。けれどみんな優しかった。「○○ちゃん」と名前で呼び合った。胸が一杯になって名前以外、一言も挨拶できなかった。
会場は東予国民休暇村。温泉好きにはたまらない。会のお開きの後、鬼菊(きぎく)ちゃんのご主人が迎えに来てくれるまでの30分、晴れた瀬戸内海を眺めながらひとり温泉を楽しんだ。この景色をこそ瞼の裏に刻んでおくために。
なにしろ瀬戸内の風景はいつも魂の底から私に熱いエネルギーを運んでくれる。
温泉の広い窓から海を眺めながら、昔話しを思い出した。
あるとき瀬戸内を旅した中国人が「やあ、日本は狭いと聞いていたが、中国の様に大きな川があるじゃないですか、島もたくさんあるし」と言ったとか。
同窓会ともなれば人数が多くてゆっくり話もできないから、と仲良し3人が私を招待して13日夜2年ぶりに会を持ってくれたのも有難かった。私は転校先の富田小学校を経て立花中学校を卒業した。卒業生総代で答辞を読んだのは本当です。(そのとき316名と読んだけれど、今日のH君の話では320名だって。その内22名は既に故人とのこと。記憶のある名前が挙がって黙祷した。

まず、集合場所は三嶋神社だった。神主でもあるN君は、猛暑をものともせず、衣冠束帯姿のまま、丁寧に心を込めて祝詞(のりと)をあげてくれ、私は神様の祝福を肌に感じて感激した。その後、彼は紙製だが赤いちゃんちゃんこをみんなに着用させて境内での記念撮影を試みてくれた。
この、宴会前の行事は還暦に相応しい特別な計らいとして有難かったが、我々は真昼の太陽光線に長時間晒されることとなった。流れる汗を拭うこともままならず、間違いなく数キロは体重が減ったなあ、という感想があちこちで聞かれた。しかし高齢の先生5人を含む出席者全員は彼の善意に満ちた好意を察して、指示に従った。あ、ひとり、「私は学生当時からわがままじゃったんよ、もう我慢できん!」と叫んで動こうとした元女の子がいて、周囲の子が優しく取り押さえていた。
お土産は神社参拝記念の立派な木札、お守り、紫の大きな風呂敷。大切にしたい。
車に分乗して場所を移した宴会場では70年代の曲の生演奏もあって盛り上がった。豪華な地元のお魚料理尽くし。素泊まりは2000円だと。会費は足りていたかと心配になった。
代表幹事の産婦人科医H君は挨拶で当時の岸内閣の動向などのニュースに、日本は今後どうなっていくのだろうと、子ども心に社会に対する不安を抱いていたことを述べた。私が恋や歌やピアノに現(うつつ)を抜かしていたときにィ・・・・彼は賢かったのね。
さて、アルコール依存症を克服した子の長〜い「飲むな」の乾杯の音頭で宴会が始まった。
車だからとウーロン茶組。あちこちで、3年前に胃を切って、あるいは肝臓が、と、見渡せば10年前とは随分様子が違う。料理よりも飲み物に興味のある私は遠慮がちにグラスを掲げた。会費は男子1万円、女子8千円だ。どうか私に1万円出させてください〜。
見覚えのある、なし、ヒーロ、ヒロイン、どの子もみんな60の顔だった。
みなさんどうぞお大事に!
8月23日に荻窪の読売カルチャーセンター教室の後、有志の生徒さんが「暑気払い」という名目で声を掛けてくれた。そこで、ご主人に着せた綿入りで本物の「赤いちゃんちゃんこ」を持参して、私にも着せてくれた。このサプライズに涙が出るところだった。
しかし、60,60とうるさいなあと思われても仕方が無いほど、私にとってここまで生きて来られたのは実に感無量だ。大きな意味がある。
40歳で身体を壊した当時、今日の元気な私の姿を想像するのは自分でも難しかった。猛烈な反省の結果、健康法へと生き方、修業方法を変えて、その良さをみんなにも伝えて、元気になるために只管(ひたすら)養生に努めて来たこの20年。本当に大切な日々だった。
今さら言うまでもないが「御蔭さま」の気持ちがなくてはこの命は一日も繋いで来られなかった。
「赤いちゃんちゃんこ」を着て瀬戸内の空を舞う夢を見た。太陽と「ちゃんちゃんこ」が溶け合って黄金色に輝いた。
私の内なるエネルギーが燃え始めている。
感謝の夏が過ぎる。

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