我、此岸にあればこそ  2008.9 安田 倫子

9月23日は、秋のお彼岸です。

[岸]の仏教的な意味

 

湾岸戦争がはじまってから、「湾」と共に毎日私たちの耳や目に触れる文字で、カギ型にかどだった水ぎわを「岸」といいます。

 

ときには、岩石や大地のきりたっている所もまた「岸」と呼びます。

仏教語の『彼岸(ひがん)』は、〈むこうぎし〉で、身も心も安らぐさとりの状態をかたどります。

彼岸に対する『此岸(しがん)』は、身心ともに不安の状態を象徴します。

此岸から彼岸へ渡る修行が六波羅蜜(ろっぱらみつ)です(この文章は仏教伝道協会発行「文字のこころ」より抜粋)

 

大辞林には此岸は「生死から解脱しない現実のこの世。」とあります。

広辞苑には「涅槃(ねはん)の世界を彼岸(ひがん)というのに対し、こちらの岸。生死を繰り返す迷いのこの世界。」とあります。

生老病死の問題を持ち出すまでもなく、私達の日常には一人では抱えきれないほどの問題が山積しています。

その苦しみから逃れようと、ゲーム、メール、カラオケ、などの遊び、読書、講演会への参加、などの学習、音楽、芸術などの鑑賞、仕事に励む、趣味に打ち込むなど、いいと勧めてくれることはみんなやる、など人々はあの手、この手で氣を紛らわそうとします。

 

私は、目いっぱい、そのような試みを、長い間やりました。

こころもからだもへとへとになるまで。

でも、へとへとになっても、ちっともこころは癒されませんでした。

 

皆が心配してくれて、有難いアドバイスに涙したときもあります。

温かいお湯にからだが伸び伸びしたこともあります。

でも、それはその時限りのことでした。


ところが、絶望の果てに、音楽もなく、味もなく、声さえ聞こえなくても、自分だけがちゃんと実在するものとして、そこに残されていることに気がつきました。
じっくり、きちんと自分に向き合ったとき、初めて自分は何を求めているのかがはっきりわかりました。

望みを手に入れるためには、どう行動すればいいのかもわかったのです。

私は完全に落ち着きを取り戻しました。


感謝の気持ちと共に、深い呼吸を一息つくと、

心身の内側から、温かい、光のエネルギーが満ち溢れて来るのを体感したのです。


そうしてこの身のこの精神の小ささに、身の縮む思いがしました。

身体の信号にさえ耳を傾けていなかった、単なる「巨大化した脳」だけの自分を発見して、キャッと悲鳴をあげました。


「人間の存在は、肉体と精神を併せ持った、宇宙の生命体のひとつである」

どちらかのバランスが崩れたら、その存在が危うくなるのだということ。それまでこの定義を重々承知して生きてきた「つもり」が、自分がガンになって、如何に理解していなかったか、思い知らされました。


もう、二十年以上前のことです。

我、煩悩の此岸にあればこそ 今日の息吹また新たなり

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