『最後の忠臣蔵』   2011.1 安田 倫子

映画『最後の忠臣蔵』を観る

6日18時より新宿ピカデリーで映画『最後の忠臣蔵』を観る。

今は人々が生きにくい時代だとは誰もが感じているのではないだろうか。

哲学者の内山節(たかし)著『怯えの時代』新潮選書で、「昨今の世情は漠然とした不安や怯えが蔓延している」と指摘している。

文学の世界でいえば、封建社会体制を論じるのではなく、その時代に生きた「武士(もののふ)」の生きざまを見事にとらえた作家たちが幸いなことに日本にはたくさんいる。

私は女ながらも、若いころから武道に憧れ剣を修練し、山本周五郎、藤沢周平を夢中で読んだ。

『最後の忠臣蔵』の原作者池宮彰一郎は2007年に亡くなっている。

彼の『島津奔る!』を当時を含めて9年間、私淑していた芸術院会員で文芸批評家のA先生が「面白いから」と私にくださって、即日上下2巻一気に読んだのがその少し前。A先生と没交渉になってから、つまり私が文学の世界から遠ざかって、もうそんなに時間が経ったのか、と改めて日月の歩みの容赦なさを思う。

話を戻すと、人が自分の生きる目標を持ち、役割を担って日々を送ること、これほど幸せな日々はない。

「現代人にとっても、最も大事なことは、自分の役割に気付くことです」と内山氏も述べている。

特に戦後、大和魂(やまとだましい)、武士道精神を外圧から根こそぎ引き抜かれてしまったことにより、現代日本人は人として自然な精神の発露である愛国心を抱いたり、義(正義)によって生きることに間違った罪悪感を植え付けられてしまったのではないか。

人として、毎日の生活のことだけに関心ごとが向いて、自国の歴史を学ばず、「自分とはなにか」を問わないで生きるのはつらい。

それは自宅の井戸の水より、ペットボトルに入ったお水を求めるようになってしまっている状態だとはいえないか。

昔は当たり前にやっていた役割を現代人は自己の命が地球より重い、という方向へ意識をもって行き過ぎるあまり、却って自分を見失ってしまったのではないかと私は思う。

「もやは利己の時代は終わり、利他の時代だ」と内山氏は続ける。

『最後の忠臣蔵』は武士を貫いて生きた男の物語を史実と絡ませながら、虚構の中に見事に人間性の真実を描いている。

観客は私たち夫婦を入れて15名。

全員シニア。

この事実が若者世代に武士の生きざまを勉強するチャンスが全くないことを示している。

学校の映画鑑賞会でどんどん上映してほしい映画だ。

若者よ、武士として生き、武士としての死に場所を違(たが)えなかった男の物語を読んでみないか。観てみないか。

若者よ。

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