武道歴は剣道がきっかけ                         2006.09.05 安田 倫子

私の武道歴は高校1年生の冬、高校剣道部に友人2人を誘って、女子部を作ってもらったことに始まる。(理由は単に全国大会にも名を馳せた今治西高コーラス部の活動に挫折しただけなのだが)
剣道部顧問は日体大を出たばかりの塩崎(のち近藤)克美先生。現在は愛媛県剣道連名の副会長をしておられ、先年の全国シニア大会では準優勝されるなど、今もお元気で剣道大好きの毎日を送っておられる。
私は大学入学(昭和41年)と同時に武蔵野市の剣道連盟(武蔵の警察署内道場)で稽古する傍ら、3年次から、夜間の日本武道館剣道教養科にも在籍。毎日2時間汗を流した。
ついで、師範科に進学、特待生として在籍しながら、授業料免除のかわりに、教養科の女子の指導を無償で依頼された。(昭和45〜48年日本武道館武道学園史記録より)
更に剣道研究科に進学。剣道4段取得。卒業生代表となった。
当時、「剣道で女子の卒業生代表とは、男子を差し置いてけしからん」という何人かの教授の声が上がったという。そのとき、私の卒業論文「19世紀に於ける体育の歴史の研究」で98点をつけてくれた故今村嘉雄先生が「論文や成績が1番であるものが代表である。それに女子も男子もない。」と発言してくださって、私の代表が決まったと聞いている。
当時大学院生であった私は、「文武仁」をモットーに努力し、渾身の論文作成であったと自負するが、コピーを残しておかなかったのが悔やまれる昨今である。
また、遡って、教育の男女平等の名の下に武道学園にも女子を受け入れると、私が入学を許されたとき、「女子が入るなら自分はもう武道館の練習には来ない」と作家三島由紀夫が武道館の練習に来なくなった。私(女)も嫌われたものである。しかし、間もなく彼は自決した。
そのときの、自決の作法を指南したのが恩師故中村伊三郎九段皇宮警察師範である。
その恩師の招きで、友人と共に皇居内の陛下の道場「済寧館」で稽古をさせていただいた女子は私が最初ではなかったか。
剣道日本代表がはじめてのヨーロッパ遠征チームを組んで出かける前の稽古を「済寧館」で行った頃だった。
稽古で玉座にたたきつけられて座り込んだとき、 「恐れ多くもお前だけだ(そこに坐ったのは)」と言われた、厳かな中に慈愛の満ちた、明るい先生の声を忘れることはできない。
皇宮警察の面々は稽古の後、風呂で汗を流すのだが、もちろん女子用の用意はない。木製の桶を捧げつつして、若い警察官が数人、ぎこちない足取りながら、こぞって控えの衝立の陰まで運んでくれたのを微笑ましく覚えている。
さて、この20年ほどは、故釘田一男先生のご紹介で後身の指導の一環として、私は毎年7月末に日本武道館で行われる「全国少年剣道練成大会」の受付・接待の本部役員としてお手伝いできることを、楽しみにしている。
(平成十八年は7月28,29日実施・写真)
この活動も含めて、学校剣道連盟からの推薦を得て、全日本剣道連盟創立45周年記念の一環として、長年に亘っての功績を認められ平成16年12月感謝状を戴いた。東京都では女性の教師としては2人の内の1人である。

杖道、居合道、太極拳をはじめとして、武道(マーシャル・アーツ)の各種目に取り組むきっかけとなったのは剣道である。この40余年の武道三昧の日々を送れたのも剣道の楽しさに取りつかれたからであり、剣道なくして今の私はない。

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