「本当の仙人は山奥なんかにはいない、街にいる。人々の生活の中にいて、良い場を作って活躍している。いざと言うときは誰かのお役に立ちながら、目立たず、ひっそりと一市民として生きている。」私の考えです。日常の場こそ修行の場だと思います。
ときどき、何もかも投げ出して頭を丸めたり、籠もったりという環境を手に入れた人の話を耳にします。社会的な環境を離れるなんて、よほどの決心をしたのだろうと推測するばかりです。
霊山と霊山の間に谷間があって、仙人修行をしている人がある程度飛べるようになって、その谷を飛び越えようとしたとき、ふと谷底に目をやると、谷間に埋もれた屍の数の多さで、同じような試みをした人がこんなにも多かったのかと知り、飛ぶのをやめたという話を聞いたことがあります。やめなくてもよかったのにねえ。
この他にも、もし、修行の途中で食べるものもなく餓えて死ぬとしても、野犬に襲われて命を落とすとしても、自分が選んだ道ですから本望でしょう。
山に籠もって修行するなんて楽ですよ。ただひたすら修行のことだけを考えればいいのですから。自分の修行を妨げるものは自分以外になく、進歩は思うままでしょう。その人にとっては願望達成の手ごたえのある、笑いの止まらぬ時間の連続が、生活そのものということになるのでしょうか。
けれども、雑念がない生活はもはや人間と言う社会的な生きものの大切な部分をそぎ落としてしまっているので、人間が大好きで人間でいたい私にとっては、その存在には大いに敬意を払うのですけれども、何の魅力も感じません。
現代に生きている人間のひとりとして、あれやこれやと日常のしがらみの波を被りながらも、元気で生き抜いて人間道を全うしたいものです。
そこの仕事一筋人間の方、あなたも山に籠もった仙人のひとりですよ。谷を飛び越える前に下界に降りてきて、一緒に深呼吸をしてみませんか?酒を酌み交わしませんか?家事雑事をやってみましょうよ。人間の息のあるうちに。
2006/10/20
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