2007/05/02 昨夜からの雨が上がったので、明るくなるのを待ちかねてゴム手袋をつけて庭の雑草を抜いた。
乳癌(にゅうがん)の手術の際、腋(わき)の下のリンパ腺を切除して以来、家事雑事に手袋は必需品だ。薔薇(ばら)のトゲが刺さっても、爪の間から雑菌が入っても、腕が腫れてあとの養生に困るからだ。
さて、ここ稲田堤(いなだづつみ)に越して来て間もなく、いつも草ぼうぼうにしている我が家を見かねて、朝ゴミを捨てる私を待っていたように、近所の人が駆け寄ってきて「雑草はね、こまめに抜くの。雨が上がった朝だと、面白いほどすっと抜けて、力がいらないし、楽よ」と親切に教えてくれてから、実行している。
玄関先の植木鉢の回りの草を抜こうとして驚いた。
鈴蘭(すずらん)が蕾(つぼみ)をつけている。
「ありがとう!咲いてくれて、ありがとう!」思わず声が出た。
しゃがんだまま、ピョンピョン跳ねてしまうところだった。
まだまだ香るというところまで開いてはいないが、真っ白でうつむき加減のふっくらとした球が2個、朝露を含んで微動している。球の中心から外へ突き上げてくるエネルギーには圧倒される。これから開くという準備の見られる残り10個も頼もしい。大きい2本の他にも5本の株が葉をつけている。
この鉢は、昨年の春に鈴蘭が好きだという話題が出たとき、鈴蘭は根に毒があるというので、鉢なら良かろうと生物学教師の同僚が、2本おすそ分けをしてくれたものだ。
花の時期が終って、鈴蘭のことはすっかり忘れ、水もやらずに放っておいたら葉も枯れてしまった。出入りの朝夕、チラッとその鉢に目をやって、心が少しチクッとし、もう鉢ごと捨てようかと思ってその友人に「申しわけなかった」と話すと、アハハと笑って、「大丈夫よ、葉っぱが枯れても鉢の中で根は生きているの。鈴蘭は根で生きるのよ。春になったら今度は数を増やして出てくるから」と言ってくれたのを思い出した。
彼女は植物博士の検定試験にも挑戦していて、職場の3万6千坪にあるほとんどの植物の名前や楽しみ方を尋(たず)ねればいつも教えてくれた人だ。
また、控え室である講師室には彼女の手によって年中庭の花々がそれとなく飾られ、どのくらい心が慰められたことか知れない。この3月私が職場を去るにあたって、同僚5人で会を設けてくれたとき、丹精込めて育てた花を大きな篭(かご)に盛って贈ってくれた。その花篭は3週間近くも我が家で楽しむことができた。
ほんの15分ほどで45ml入りのビニールの袋は雑草でいっぱいになった。蔓延り(はびこり)過ぎた蒲公英(たんぽぽ)も野生の芥子(けし)の花の終ったのも鴉ノ豌豆(からすのえんどう)も皆納まっている。この子達がまだ双葉のときに採っていれば労力もお別れ惜しい気持ちも少しは軽かったのではないか、などと思うと同時に、私もせっかく準備を重ねて世の中に生まれてきて、芽を出したとたんに摘み取られてしまう雑草のような存在ではなく、人が愛でる花として咲ききってみたいものだとも思ってしまった。
しかし、今年還暦の我が身としてみれば、もう蕾のままで終るしかない人生なのかも知れないが、今迄通り精一杯根を張って時を歩んで行くだけのことだ、という考えに至るとなんだか愉快になってきた。
たった15坪の、近所でも目立つほどの小さな家に住んで10年になった。
一家3人のメンバーはほとんど留守で、寝に帰るだけの物置小屋のように乱雑にしている空間でも結構気に入っているが、今年の目標は身軽になること。少しずつ溜め込んでしまった垢を取り除いていくつもりだ。
鈴蘭も花が終ったら鉢から出して直植(じかう)えにしよう。
横の小川で鯉が跳ねた。