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乳癌体験記

私と癌は運命共同体。決して私を滅ぼすことが目的だけの憎い相手ではありません。癌になって得したことは、楽しいことを見つけるのが上手になったことかも知れません。生きているって楽しいねって思えることが、とても嬉しいことなのです。

■ 乳癌の経緯

▼ 昭和64年春ごろより疲れやすいことに加えて、両乳房に熱を伴う激烈な痛みを終日感じるようになりました。(検診した複数の医師の言によると、「癌は痛くない、熱くない」とのこと、ほんとにそうかなあ、と自身の身体の苦痛と診断結果の差異に却って不安が募りました。)
▼ 同10月、当時住んでいた武蔵野市の婦人科癌検診を受けました。しこりは認められず異常なしの診断でした。乳腺症だというのです。しかし、では、この、熱と痛みと指先に当たる「米粒大のしこり」の正体はいったいなんなのよ、と問わずにはいられませんでした。そこで、乳癌体験を持つ友人知人に相談を開始したのです。
▼同11月、知人紹介の産婦人科病院を経て、飯田橋逓信病院外科の担当医の触診にて「乳癌」の疑い濃厚であるとの診断を受けました。お二人とも、私の感触と同じく米粒代のしこりを認めるというのです。しかも、そのしこりは硬くて、「悪いもの」はその医師の経験上、「硬い」というのです。私は、いよいよ自分でも癌に対する対策を真剣に考えなくては手遅れになるのではないか、と思いました。今のように無知なままでは、いずれ近いうちに自分の身体に起こり得るであろう「大変なこと」に正面から対応していけないのではないかしらん。とにかく、悔いの残らないように、一つずつ疑問点を明らかにして、やっていこうと考えました。
▼ このとき初めて、乳癌の検診は「産婦人科」ではなく、「外科」の担当であることを知りました。これは大変なことです。それまでの私は、女性の身体に起こる異変のことですから、当然「婦人科」と決めてかかっていたのですが、「外科」だったとは驚きでした。このことを広く女性の健康診断の折にも説明をして、女性の多くが、私のように回り道をしなくてすむようにしておかなければならないと痛切に思いました。
▼ それからほとんど毎日、厚さを重ねれば天井に2回届くほどの、癌に関する本や出版物を読み、今後の対策を探っていったのです。
▼ 同12月8日しこり部分の摘出手術を受けました。しこりの直径は1.2センチ。数ヶ月前の何倍にもなっていました。部分麻酔だったし、自分の手術は見ておきたかったので、摘出したしこりを、指で掴ませてもらいました。肉色をした、いやな感じのする塊でした。先生も「これがあなたのものです。しっかり見てください。いいですか、もう一度大きい手術になる可能性があることを、頭に置いておいてくださいね。」とおっしゃいました。そのしこりは2日後、バイオプシー(生体細胞検査)で癌細胞に間違いないとの結論が出ました。
▼ 同12月26日 同病院にて左乳房摘出手術を受けました。事前に夫も立会いの上、手術の切開デザインの希望を出すことを含め、横一文字、腋(リンパ切除)を通って背中まで、切開し、大胸筋温存法という規模の手術は、その時点での私が、最良と納得できる方法でした。左手の握力はほとんどなくなってしまいました。常にリンパマッサージをして、腕に細菌が感染しないように気をつけ、家事はゴム手袋を着用しました。うっかりしていると、腕が何倍にも腫れて膨れ上がってしまうのです。
▼ それから1年半に渉ってノルバテックス(抗癌剤・ホルモン療法)を服用しました。が、下痢などの副作用が強く、その上、あいかわらず右乳房にも、熱、痛み、違和感がありました。この時点で主治医に相談の上、薬の服用を中止しました。
▼  ここで、兼ねてから試みていた、代替療法に重点を置くことに踏み切ることにしました。主治医とは、定期検診を欠かさず、急変の場合には、受け入れてもらえるよう診察券を携帯することなどを了承してもらえました。(先生ありがとう。これで気持ちが一歩楽になりました。)
▼ このとき、時期を同じくしてずーっと違和感のあった、背中の皮膚を手術で除去してもらいました。バイオプシーの結果「限局性皮膚硬化症(膠原病のひとつ)」と判明しました。「ガンに加えて膠原病か、やれやれ」という気持ちになりました。これで、免疫力の低下を痛切に感じました。今後、免疫力を高めて体質改善をしていかないと、次々に新しい病の部位が身体のあちこちに現れて、手当ての度ごとに身体の部品が無くなっていくのを予感しました。それで、いままでと同じ治療法だけでは、生命が助かるために効果的ではないと判断したのです。

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■ その間の活動について

 当時の情報の中では、ワット隆子さんの乳癌体験者の会「あけぼの会」の存在がありがたかったのです。いまだに、所属も連絡もしていないのですが万一、自分ひとりでは現実を支えきれなくなったとき、連絡できる存在として、長く頭の中にありました。(心強いということは大切です)いつか、チャンスがあれば、その大きな存在に対して、ひとこと御礼を言いたい気持ちを今でも持っています。また、その会の為でしたら、ボランテイアとして、今苦しんでいる人に、すぐ役に立つ講座の出張に出かけたいと考えています。(安価ですてきなブラジャー下着のつけ方、リハビリメイク、リンパマッサージ。呼吸法など)お金がかからなくて、ひとりでもできて、身体も楽になり、きれいになって毎日を過ごせる方法を、私の体験の中からお話したいのです。
 1995/4 沖津月夫のペンネームで乳癌体験前後の家族の肖像を面白エッセイとしてまとめ『夢の降る朝』を近代文芸社から自費出版しました。
 2001/4『呼吸法でガンを克服』をブレーン出版より、呼吸法の講座をまとめて出版しました。
 東京都公開講座(都立荻窪高校定時制ホームページ)武蔵野大学生涯教育センター主催の三鷹サテライト教室ホームページ)で「呼吸法による健康法講座」開講中。担当講師。
 「むさしのコミねっと」でも紹介されています。
  このところ仕事の都合(時間講師を昼間だけでなく、夜、定時制も担当)で07:00am〜11:00pmぐらいまで留守にしており、そのため以前のように個人の悩みを電話で聞いてあげることができないのが残念なことだと思っています。
 毎日、呼吸法の実践、健康でいられるようにとの祈り(宗教ではありません、気持ち)、療術院通院、などなど、健康を維持するための努力は結構気に掛けてやっています。

■ 私にとって癌とは

癌とは離れられない一生のお付き合いの仲だと覚悟しています。癌は、ちょっとこちらがいい気になると、すぐ、「出るぞ、出るぞ」と身体の中を駆け巡ってくる生き物です。疲れたときなどに身体の中に感じます。私が死ねば癌も死ぬわけです。アホなヤツと思えないこともないのですが、なにしろ私の内から突然変異した細胞なので、ヤツとは運命共同体という関係です。互いは、それこそ付き合い方を間違えると、即お陀仏になるという点で同じ愛すべき存在であって、決して私(自分自身)を滅ぼすことが目的だけの憎い相手ではありません。

■ 乳癌になってよかったこと

▼ 家族に恵まれていたことを再認識できたことです。夫も子供も私には過ぎた大きな存在です。東京でしかできない私の選んだ療養法のため、私に負担がかからぬよう、実家の両親は幼かった長男を12年間も(小学1年〜高校卒業まで四国で)預かって育ててくれました。癌に疲れは大敵で、十分療養させたいからとの両親の配慮でした。こんなこと、普通の家庭ではありえないのではないかしら。あと妹をはじめ兄姉もこぞって協力してくれたのです。
▼ 友人に恵まれていることを再認識しました。知性と教養と友情にあふれた人にたくさん恵まれていました。
▼ 恋人も常にいました。(家族とは別に、ボーイフレンドの存在も大切なのです。)プラトニックでも、どのような形でも、仲良しの異性がいた方が倍楽しいのです。ただし、ここが、難しいのですが、つきあう男性の人間性を見極められない女性には安易にお勧めできないジャンルの問題です。えらそうに聞こえるかもしれませんが、付き合い方に失敗して泣いている人を何人か知っているものですから、つい心配してしまいました。そういう人はファンクラブ程度に留めるべきだと、自分のタイプを知ってから行動されることをお勧めします。くれぐれも三面記事に載らないように念じるばかりなのですが。
▼ 健康状態を常に把握して、働けたらいいな、と考えています。少しでも働けたら、それは私にとって、嬉しくて楽しいことです。
▼  ボランテイアもできるほどの心のゆとりが自分を豊かにしてくれると思います。社会のお役に立てるような生き方をしているかどうかが、大人であるかどうかの境目となるのではないかしら。大人のお付き合いをするには、自分も大人になる努力をしなくっちゃね。
▼ 何事につけても、以前より感じやすくなったので、ちょっとしたことにでも心が動かされてしまいます。嬉しいにつけ、悲しいにつけ、泣いてしまうのは仕方がないけれども、おかげで退屈をすることのない激動の毎日です。中でも、大笑いすることが多くなりました。何の中にも、楽しいことを見つけるのが上手になったのかも知れません。生きているって楽しいねって思えることが、嬉しいことです。このごろは、癌になって得したとつくづく思うのです。「ありがたいな」と思うと、それだけで、神仏を拝むように自然に頭が垂れるのです。

■ 今だからこそ乳癌といえる

苦しんでいる最中の人は、誰かのたった一言でも、救われたり、気持ちをどん底に落とされたりします。
例えば私が入院中に毎日新聞の連載小説、曽野綾子『天上の青』の中に主人公の殺人犯となる弟に対して姉が「あんな弟は癌にでもなって死んでしまえばいい」とつぶやくところが出てきたときには、ベッドの上で新聞がクシャクシャになるほど泣いてしまいました。そのとき私は乳癌になった悲しみでいっぱいの時だったからです。あれから18年たった今でもそのとき受けた心の傷は、埋められないままになっています。小説に罪はないのですが、本当につらかった。だからこそ、今、立ち直れる方法を言葉にし、伝えることができると思います。
他にも、乳房を取っちゃったなんて「もう女で無くなった」扱いを受けた方も少なからず、いらっしゃるのではないでしょうか。実は私も職場の同僚(教師)に言われたことがあります。癌に罹ったということでさえショックなのに、その上に女も否定されるなんて、ダブルショックもいいところ。そのことが原因で離婚した人も聞いています。やりきれないね。
こういう風に、つらいときは、冷たい人や意地悪な人の方には心を向けないでいましょう。世の中には、やさしくてあったかい心の持ち主の方が多いのですから、なにもしょげているときに、あえていやな人々の中に交じる必要も時間もないと思います。よい生き方はよい巡り合わせから、開けてくるような気がします。元気を出して助け合いたいものです。

癌でなくても入院中にテレビで料理や温泉巡りの番組の多さにうんざりした人は多いのではないでしょうか。美しい絵や音楽や景色だけを流してくれる番組が、病気の人向けにあってもいいのではないかと考えています。癌体験者の意見としてこれらのことをもっと多く発信していきたいです。

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