◆ 黄山の石段 ◆
遙か氷河期の地殻変動によって出来た、天に聳える岩山の黄山に土はない。6万段はあるという石の階段が山の峰々を伝っている。この数は間違っていない、たくさんある峰々を合わせて黄山と呼んでいるのでこのぐらいの数にはなる。岩を削れない所は人力で階段用に石を運び、可能な限りは人力で岩を階段状に掘ったという。ここまで道を通すのにどのくらいの困難があったことだろうか。想像を絶する。が、あまりにも見事な光景だ。
「愚公山を移す」という故事来歴が中国にはある。(列子・湯問に登場する中国古代の伝説上の人物、愚公の家の前に二つの大山があり、出入りに不便であったため、家族とともに山を移し始めた。知叟(ちそう・利口者)がその愚かさを嘲笑したが、意に介さず、天帝はその志に感じて山を移動させたという。「スーパー大辞林」)この果てしない作業を、中国の人は人力でやって見せる。しかも黄山の場合は人々がこの霊山に登りたいという気持ちが募って、出来た階段だ。人海戦術の底力におそれいった。
エジプトのピラミッドと共に、月から見える建造物として有名な万里の長城など、偽政者が人民を強制して建造したのとは違っているのだ。そこが貴重である。近年では山頂の途中までロープーウエイができたとはいうものの、別の峰に辿り着こうと思えば今も一歩一歩、歩む以外に登る手はない。五元で白樫の杖を買った。
麓からロープーウエイに頼らず、自力で歩いているグループも散見できた。
黄山の松----------
黄山地区に入ってくる道路の途中《黄山松精神》と書かれた大きな看板が目に付いた。なるほど1000m級以上の峰々では松は岩と岩を割って生えている黄山松一種類のみ。今でも他種の持ち込み、栽培は許可されていない。自然保護に努めた結果の現れでもある。
松は息を呑む見事さだった。数十年、数百年経った樹でも、それほど大きくはなれず、枝は大地から見ると水平に伸び、根は岩の中で外に見えている樹の大きさの何倍もの長さにも達しているとのことだった。
気をつけてみると、所々、成長した松のために岩が砕かれ、崩れ落ちている。
私が子供だった頃(小学生つまり、50年も前のことだが)、NHKのラジオドラマで下村湖人作の『次郎物語』が放送されたが、今でもその主題歌を覚えている。その中に「次郎、次郎、観てご覧、松の根は岩を砕いて生きていく」というくだりがある。子供心に本当にそういうことがあるのだろうかとずっと印象に残っていた歌詞だった。名所旧跡を訪ねれば、必ずそういった珍しい木の1本や2本には出会う。
信じられるだろうか、黄山松は全てそうなのだ。歌詞は正しかった。黄山では、全くその通りではないか。
黄山の駕籠----------
気功研修旅行開始早々の登山だが、今回の私の目標は、最後までみんなについて行くということだ。二日かけて登る黄山の初日にバテテしまってはせっかくの研修が台無しになってしまう。先生初め、みんなに迷惑がかかるといけないという気持ちが強く、大事をとって私ひとり駕籠に乗った。同時に、楽をして、楽しい気分で乗れると思っていた。
予想外だったのは、担いでくれる駕籠かきの「ハイフォー」の掛け声も、顔や肩から流れ出る汗の滴も、撓る(しなる)竹製の駕籠の上の私の心にはすべて『痛く』響いたことだ。担ぐ側と乗る側の立場の違いを身体に直接感じて、私はいたたまれなかった。それは、高見の見物で、愉快愉快とだけ言っていれば良いというものではなく、切羽詰った、命のやりとりを肌で受け止めてしまったから、のような気さえしてきた。
駕籠は、駕籠かきの歩みと共に揺れる。落ちないように両手を突っ張っているだけでも緊張する。それに登り降りとも狭い石段に人がぎっしりだ。先ほどもロープーウエイには待たずにすぐ乗れたが5月の連休ともなれば、乗るのに2時間待ちもあるそうだ。中国五霊山のひとつである黄山が人気の聖地である所以だ。
ツアーガイドの振る旗やすれ違う人の会話で知れるのだが、この山を訪れる人々は北京、上海、広州を始め、地元の人は勿論、中国全土にわたるようだ。香港、カナダの華僑、フランス人のグループも目立った。私の2倍の体格はあろうかと思われるフランス人の老婦人の乗った駕籠と前後したが、そちらの駕籠かきは、「いいなあ、お前ら軽いの乗せて」と何度もこちらの駕籠かきにぼやいていた。
親日派と反日派----------
すれ違うたびに、人が声を掛けていく。山の作法だ。しかし、一方は親日、もう一方は反日という二派に分かれるのは昨今の両国の政情を反映してからか。「あんた、軽いんだから下りて歩きなよ」「日本人は汗して乗せている人の上に乗って平気なのかね」などは揶揄(やゆ)として苦笑いでやり過ごした。「日本鬼子(リーベンゴエズ)」(日本の鬼め。かつて戦争中はそう呼んでいた。)という言葉が私に向かって使われた時には30年前の同じような体験(そのときは黄色い腕章を付けた人がどこからともなくサッと現れて、そういった人をどこかへ連れて行ってしまったが)を思い出してしまった。それも彼らの本音として受け止めるしかなかった。景色のいいところで駕籠かきに写真を撮ってもらっていたとき、急に反日の感情を顕わにした男女5人がその場所に入ってきて、私を身体で押しのけて、次々と写真を自分達で撮り、いっこうに場所を譲ろうとしない。「ここは俺達の土地だ」「日本人より中国人のほうが何でも先にやるのがあたりまえなのさ」「じっと待ってろ」などといいながら私がじれているのを楽しんでいる様子なので、絶景ポイントではあったが、その場所はあきらめた。
チップの意味----------
30分ほど進んだときに、道端に小さな廂をつくった椅子に10人ほどの駕籠かきが腰掛けている「たまり場」に着いた。そこで駕籠かきは急にメンバー交代をした。最初のメンバーはここで終わりだという。「目的地の白雲賓館は何処なのよ、行かないの?」と聞く私に「大丈夫、次の人たちが乗せてってくれるから」そう軽く言ってから、彼は「小姐(シャオジエ)」私に顔を近づけて目を見据えてゆっくり言葉を発した。「俺は20年もこの仕事をしてきたんだ。それもこれも他のためなんかじゃないんだ。」
「辛苦了(シンクーラ)」(お疲れ様でしたの意)私がそう言うと「そうそう、その言葉はとてもいい。我々には。本当に辛苦了だよ。しかし、それをあんたは形で示してくれなくっちゃいけないよ」と手首を下に向け、親指と人差し指で輪を作った。
チップのことを指すのだとすぐわかったが、あいにく私には手持ちがない。中国紙幣にまだ変えていなくて、日本円にすれば1万円に近い代金の700元も、駕籠に乗るとき急いで葉さんに借りたのだ。(準備の悪い私は、とうとう、この二日で何とメンバー8人にお金を借りた。みなさん、親切にありがとう。)小銭入れの中を見せた。「日本円でしかもコインしかないの。悪いけどひとり200円ずつにして。」あきらかにがっかりした顔つきになって二人はしぶしぶ200円を受け取った。「俺たちゃ紙のお金でなくっちゃ」と盛んに言うのだけれども私には何ともしようがない。「日本のお金でも紙がいいんだ、紙が」(私だってねえ、汗びっしょりで運んでくれた貴方たちに御礼ぐらいはしたいわよ。でも、千円は私にとって大金なのだ。直ぐ出せるお金ではない。)「じゃあ、私の仲間が後から来ることになっているから、それまで待ってて借りるから」そこまで言うと日本のコインを受け取って消えていった。交代したメンバーも同じことだった。
しかし、着いたところは白雲賓館の玄関先だったので、とりあえずほっとした。(あくる日の駕籠では、目的地で監督をしている親方にチップを強要したのがバレたら、きつく叱られるということで、内緒内緒が合言葉のように使われた。遠くに親方の姿を認めたとたん、受け取れないままになってしまった駕籠かきも居た。)
先ほどの駕籠かきは、私が日よけ用に被っていた黒のキャップを自分のほうが似合っているからと被ったままで行ってしまったけれど、キャップがなくなろうと何だろうと、山中迷子にならず、ともかく無事に着いてよかったという気持ちのほうが強かった。
白雲賓館の午後----------
皆の足ではここに到着するまでには、まだこれからもっとかかるだろうと予測して、玄関横の喫茶コーナーでお茶を頼んで待つ事にした。(あのさっき見た天都峰では、片道一時間半はかかるでしょうよ。)
案の定1時間ほど経ったところでガイドの趙(ショウ)さんから受け付けに電話が入り、みんなの到着が『少し遅れる』ので昼食を先に済ませてほしいということだった。ひとりでランチを頼み、代金は後から来る人が払うということで食べることができた。
喫茶コーナーで待つ事3時間半。結果的に1時間は瞑想し、1時間は新聞などを読み、1時間はメモをつけたりしていた。山は建物の中といっても寒く、コートが役に立った。トイレを3回も借りた。みんなといっしょに歩いていたら、トイレに困っただろうなあ、それだけでも、駕籠で先に来てよかった、などと考えていた。
石段のところから少し離れた林の中に建っているこの白雲賓館はひっそりとしていて山の冷気を十分に浴び、深呼吸をすることが出来た。次第に身も心も浄化されていくのが感じられた。自分ひとりがこんなにいい気持ちでいいのかしらん。もったいない気がした。
ガイドの趙さん----------
4時前になってガイドの趙さんが迎えに来た。「代金は払った?」と聞くので、「手持ちがないのでまだ」、と答えると食事代を払ってくれた。「お茶代も」というと「えっ?」という顔をしたけれども「後で返すから」と言うと「いいですよっ」と頬を膨らませながらも30元出してくれた。「長い時間お世話になった喫茶コーナーのお姉さんに何か御礼をあげたいんだけれども」と加えると、「飴かなんか(持って)ないの?」と聞く。カバンを探してもあるわけない。(だって、今朝出るとき貴重品とパスポートだけ持って、山は荷物になるからといったのは貴方よ。5個持っていた飴はとっくにあげたり食べたりしちゃったわよ。)「ん、もーうっ」という大きいゼスチャーをして趙さんは自分のカバンから大きめの飴を一つ出して私に寄越した。 | ガイドの趙さんと |
強力(ごうりき)----------
みんなと合流して、別峰の山頂ホテルまで1時間強の道のりを余裕で歩いた。今度はなだらかな道だった。自分の足で歩く幸せを噛み締めながら、みんなの後をついていった。天都峰登頂組はすこぶる元気だった。(とても真似はできない。無念、次の機会だ。)
Kさんの鳴き真似に山の中から小鳥が返事した。写真を撮ったり、撮られたり、「わああ、高いね」(崖が)など、見て当たり前のことを口にして笑いあった。それが楽しかった。
その間も竹竿の両側にひとりで明らかに100kgを越すと推測できる荷物を担いだ強力(ごうりき)たちとたくさんすれ違った。
山頂のホテルでの私たちの食べ物も使用する品々も、全て彼らの肩一つに担がれて登ってきたものだということが現実としてよくわかった。
富士山、ヒマラヤ、世界中の強力たち、山に生きる人びとの汗の価値が山の空気と共に心身に染(し)みわたって来た。
「辛苦了」(シンクーラ)その言葉がやまびこのように私の胸に響き続けていた。
遠くに見えるホテルの灯が夕闇の中から場所を知らせてくれ、安堵の思いが胸に広がった。
霧のような小雨が降りかかり、山の霊氣はあくまでも優しく私たちを包んでいた。
撮影:矢野直明