◆大いに啓発を受け、貴重な体験をさせていただいた◆
武蔵野大学・日本文学・日本語学科主催 文学講座 2006/11/29 14:40~16:10
「小川洋子さんに聞く」・・・物語の楽しみ・・・聞き手・本学講師 高根沢紀子
解説司会・本学教授 原 善
今日のお話は、小説家を目指す人には是非伝えてあげたいという気を起こさせた。それは、小川さんが「なぜ書くのか」という問に最も明確に答えているからだ。
以下は文学には門外漢の私のメモなので、文学の話にはなっていない。従って発言が正しく再現されるであろう、日文の報告書を待ちたいところである。
ただ、小川さんのお話によって、私はおおいに啓発を受けた。「氣」の魅力を知り、その教室を主宰している一修行途中の身としては、思いもかけず大変貴重な体験をさせていただいたので、感謝の意を込めてここに記録として残したい。
----作品が映像化されることについて、はどのようにお考えですか?----
◆ どのように表現されてもかまわない。
◆ 違う才能によって表現されることにより、自分の作品の魅力の中で自分では見えていなかったものが見えてくる、ということがある。
◆ 『博士の愛した数式』(日本人監督・エキストラとしても数秒出演)『薬指の標本』(フランス人監督)は、自分の原作だけれども、自分の知らない環境に身を置くという、不思議な体験ができた。
----小説を書くときには何を考えていますか?----
◆ たぶん、わかっていないことが多いまま、1行目を書き始める。そうして、自分の予想を超えた場所へ書いているうちに到着する。(想像通りの結末を迎えた作品は、こじんまりとしたもので終ってしまう)
◆ 物語の方が先にあって、書き手がそれを追いかけているということが、書くことの楽しみ。
◆ すでにあったものが小説の中で収まるところ(正しいところ)に収まる、その手配を自分はする。
◆ 何か言いたいことがあったけれども、言えずに死んだ人の気持ちを言えることが嬉しい。
◆ 先を歩いて行った人たちの手から零れ落ちていて、その時点では言葉になっていないものを拾い上げて言葉にする。
◆ 死者と会話する。(死んだことがないのに、なぜか死者が懐かしい。)それを自覚して書いている。
◆ 言葉という道具があまりにも不自由な道具で、辞書にある意味だけでは成り立たない。本当に言いたいことは言葉の蔭に隠れていて、それを(読者に)感じ取ってもらう。
【以下、会場からの質問】
----「数学と文学とはどういう関係があるのですか?一般的に考えれば女性なら登場人物の家政婦に近い考え方をするのに、小川さんが数学者に近いように思えるのは?」----
◆ 取材のときに藤原正彦先生に聞いたこと。「そこにはつながりがないというところに橋を架けるのが数学者」ということだ。では、言葉と数字に橋を架けたらどうなるだろう、と考えた。
◆ たくさんの数学者に会ううちに、数学者はすべて謙虚であるということを知った。「神様が創ったいろんな数字の秘密を見つけているだけ」という。小説家も自分の足元を掘り起こすという作業が必要。すでにあるものの前には、単にひざまずくという謙虚な態度で書くべきと、そのとき、書く態度が変わった。
◆ たとえば、最初のとっかかりは無機質な1枚の写真であっても、書いているうちにだんだん動いていく。それに書き手はのめり込まず、よく観察すること。そうすると、人物達がだんだん自分のイメージを超えていく。(成長していく)
----先に絵があって、それに物語をつけるということはあるのですか?----
◆ ある。マッチ箱ひとつに描かれている絵に対してひとつの物語が書ける。
----『ブラフマンの埋葬』の「ブラフマン」の名前の由来は?----
◆ 『ブラフマンの埋葬』の「ブラフマン」の名前は、人間とか生きものとかというものではなく「ただ、ぬくもりだけは持っている存在」何か輪郭がなく、何にでもなれるというつもりで梵語の中から選んだ。
----子供の頃に読んだ本で印象に残ったものは?----
◆ 11歳の頃『ファーブルの昆虫記』を読んで、自分は大きな、尊大な世界の一員だと気付いた。そうして、神様の計らいによって生きていることを知った。
以上
【メモとして】
小川さんが「死者と会話する」「言えずに死んだ人の気持ちを代弁するために書いている」と言う発言をしたときから、私はその言葉に強く感応し出した。話しが「こっち」の方に来て嬉しかった。このとき急に会場の空気が和らいで、辺りが虹色の光に包まれた。小川さんもボーッと光に包まれている。小川さんの発言に、本当に喜んでいる存在がたくさんこの会場にいる。わたしにはその気配がわかった。
私はとてもいい気持ちになった。これは気功の入功(にゅうこう)状態(強いて言えば瞑想状態)と同じである。
いつもの習性でカメラを小川さんに向けた。
シャッターを押すが、非常に長い時間、あたりが虹色に輝いていて、なかなかシャッターがバシャッとすっきり下りてくれなかった。シャッターが自然に下りるまで、身体が震えないように我慢しながら待った。
そのときの写真を見て欲しい。
今までに写ったことのない大きさの虹色のシャボン玉とでもいえばよいだろうか「気の球」が画面左半分に映っている。「気の球」と私が呼んでいるものは、写真は円に写っているが、実際に見えるものは球だから。
直ぐ後で、会場から小川さん向けに発せられた「純文学と大衆文学との違い」を、芥川賞選考委員の立場からということで、小川さんから黒井千次先生に発言を求められているときに撮った後ろにも、かすかに2個の気の球が認められる。
私は今まで「死者」と会話するという意識を持ったことがなかった。小川さんが「死者」というときには地上に存在したときの人物を中心に見ているのではないか。
私が交信するのは「魂(魂魄)」とであった。それが誰の肉体にどのくらいの時間宿っていたかはあまり問題ではない。「魂」(永遠不滅のエネルギー)はそのときどきに命あるもの、肉体に宿ってさまざまな形となるだけなのではないかと考えているので。
今後は「死者」とも話をしてみようか。
小川さんが純粋な「魂」を持っていて、言葉を表現の手段として日々を紡いでいる一級のスペシャリストだということが今日よくわかった。
それに、彼女が無理をしないで自然体で生きている証拠に、まず、肌が輝いていた。内面からにじみ出る精神と体の健康さに溢れているのだ。また、きりりと結んだ口元に彼女の持っている「魂」のパワーの強さを感じた。
彼女は小説を書くという激しい作業によって、エネルギーを使い果たしてヘトヘトになったりなんかしていない。才能発揮にはまだまだゆとりがあるのだ。
作品に出会うのが楽しみになってきた。